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2000年6月のある日に、日曜ワイン教室の生徒さんからフランスのワイン旅行の話が持ち上がった。行き先は、ブルゴーニュ。 一般的にワインスクールでよく行われているようなワインツアーではなく、「個人旅行」の延長で行うことなり、航空券のチケットは各自が取り、フランス現地集合現地解散として、訪問先の生産者のアポイントメントは、私とMzさん中心になって行うことになった。 参加メンバーは、日曜ワイン教室のMzさん、Stさん、Gtさん、Snさんの女性の面々。そして、飛び入りでSk氏。もし彼が参加しなかったならば、私以外はすべて女性というメンバーであった・・・・。 |
ブルゴーニュのドメーヌへのアポイントメント |
| さて、7月に入り、参加者全員会社へ休暇届を出し、エアーチケットも取れ、ホテルの予約も取れたのだが、肝心の訪問先へのアポイントメントが一つも取れていなかった。 旅行の日程は、8月31日(木)に成田を出発、シャンパーニュに一部の人は立ち寄り、9月3日(日)に全員がブルゴーニュに集合。 そして、9月4日(月)から6日(水)までブルゴーニュに滞在。6日(水)には、パリに戻る、というものであった。 したがって、4日5日と6日の午前中しか、ブルゴーニュの生産者を訪問する時間が無かった。そのような短い期間に、私達が訪問したいドメーヌは、次の四つであった。 ドメーヌ・アルマン・ルソー、ドメーヌ・デュジャック、ドメーヌ・クロード・デュガ、ドメーヌ・ギィ・アミヨ。 この四つのドメーヌに一度にコンタクトを取ると日程が重なる可能性があるので、まず、一番行きたいドメーヌを決め、そこでアポイントメントを取れたら次のドメーヌに連絡するというやり方をとった。 本来ならば、3ヶ月以上前から準備し、計画を立てなければならない。しかし、参加者各々が、会社の休暇をとってのことで、切羽詰まった計画になってしまった。 |
状況は、厳しかった。 7月8月は、バカンスでドメーヌはいなくなる。その前後は、当然仕事が忙しい。そして、9月中旬になると葡萄の収穫期になる。 特に、収穫前だと精神的にもピリピリしていて会ってくれることは、まずありえない・・・というのが定説。 そこで、バカンスに行く前にアポイントメントを取らないと、あとは、直前の8月下旬しか連絡を取る時期は無い。 まず、最初にアタックしたのはドメーヌ・アルマン・ルソーであった。7月の中旬、バカンスに入るぎりぎりの時期にファックスを流して、2日後に返事がきた。 「収穫前で9月は、会えない。別の時期にまた連絡を取ってくれ」という内容であった・・・。 断られるのは、当然という気持ちと、大きな挫折感。・・・・さて、どうする。ドメーヌ・アルマン・ルソーをあきらめて、次のドメーヌに連絡を取るろうか。しかし、他のドメーヌにアポイントメントが取れたらますますアルマン・ルソーに行くチャンスはなくなる・・・。とりわけ、Mzさんは、アルマン・ルソーを訪問したいがために今回の旅行に参加したようなもの。もし取れないのなら、せっかく大変な思いをして会社の休暇を取った努力が水泡に帰すことになる。 そこで、もう一度、ドメーヌ・アルマン・ルソーに手紙を書くことにした。私は、一度断られているので、Mzさんが手紙を書いた。 何故、訪問したいのか。日本では、会社の休暇をとることが如何に大変であるか・・・云々。そして、アルマン・ルソーの返事待ちにした。・・・ しかし、待てども待てども、返事はこなかった。アルマン・ルソーが駄目なら、他のドメーヌも駄目という可能性が高くなる。 出発の丁度一週間前の8月24日(木)に、まだ一つもドメーヌのアポイントメントが、取れていなかった。このままだと、どこのドメーヌとも訪問の予約を取れないまま出発することになる。気持にどんどん焦りがでてくる。 そこで、訪問者の受入態勢が整っているボーヌのトップクラスのネゴシアンであるルイ・ジャドー社に訪問しようと考えた。早速、輸入業者のKn氏に連絡を取った。しかし、現地の担当者から、日程は来週にならないと決まらないとの返事が返ってきた。 ・・・絶対絶命のピンチ!これから一体どうなるのか。成田出発の8月31日は、刻一刻と迫っていた。 |
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ワインブームのなかで |
| 私がブルゴーニュワインの魅力にとらわれたのは、もう何年も前のことである。 その当時、ブルゴーニュのドメーヌに訪問しようなどということは、考えてもみなかった。私にとって偉大なワインの造り手たちは、雲の上の存在であったからだ。私は、偉大な造り手たちのワインをテスティングすることを通じて、彼らの情熱を十分に受け取ることが出来たし、出かけていっても、本質的なことは変わらない、と考えていた。 しかし、日本のワインブームが頂点に達していた2年前に私は、それまでのワイン専門店としての仕事をやめようと思ったことがある。 何故ブームなのに店を止めるのか?と疑問に思う方がいるかもしれない。 私がワイン専門店を営む目的は、私自身がそのワインに心を動かされたからであり、その感動を、ワインを買っていかれる方に伝えたいと思ったからだ。 ビジネスである以上、赤字では困るが、利潤の追求は、副次的なことなのだ。そんな経営者を今の世の中の風潮では、株主は絶対に許さないだろう。しかし、利潤追求のあまり明らかに粗悪品を販売する業者も現に存在する・・。 私は、ワインをひとつの文化であると思っている。では、 文化とは何か?と聞かれたら、私は、「文化とは、精神性の伝承である」と答える。感動を伝えること、すなわち文化なのである。もしも、ワインの保存状態が悪く、それらのワインを飲んだ人が、何も心を動かされることが無かったならば、私は、ワイン専門店としての価値を失う行為であると思う。 ワインジャーナリズムが発達し、著名な評論家が高得点をつけているワインを品揃えできれば、ワイン専門店であると錯覚している人々がいる。しかし、私は、そのワインショップが、本当の意味でワイン専門店であるかどうかの指標は、彼の顧客にたいして何人ワインに感化できたか、そのショップの周囲の人口比率でワイン人口が他の地域よりもどれだけ増えたか、であると思う。感化されるのは、感動がつたえられたことの結果である。 2年前、私がワイン専門店を止めようと考えた頃、巷では、ワインブームにうまく乗ってビジネスを成功させようとする人々で溢れ返っていた。 しかし、私は、それでは、ワインの本当の感動を伝えることは、出来ないと考えていた。そして、その頃、あるインポーターの話から聞こえてくるブルゴーニュのドメーヌの姿もビジネス優先といった姿であった。 はたして、そうなのか?インポーター自身が、ビジネスライクだからそのような面しか目に入らないのではないか?もし、インポーターが言うことが正しければ、それまで、自分自身が、ワインをテスティングし造り手の情熱を受け取っていたと信じていたことが、誤りであったことになる・・・。 ここで生じた疑問が、その後、私の心の中で大きくなっていった。もしも、ブルゴーニュのドメーヌ自身が、ビジネスを優先しているのならば、もう、ワイン専門店はやめて別な仕事を見つければいい。ワインは、趣味にしておけばいいのだから・・と、考えるようになっていた・・。 |
| 8月26日(土)になっても、事態は何も進んでいなかった。依然として、ドメーヌとのアポイントが取れない中で、アルマン・ルソーとのコンタクトは、いったん棚上げして、他のドメーヌにあたることにした。 ドメーヌ・デュジャックのジャック・セイス氏とドメーヌ・クロード・デュガのクロード氏。もしも、気持ちが伝われば、訪問できるという、確信があった。 自分の思いを文章にして、正確に気持ちが伝わるようにフランス人に翻訳をしてもらった手紙をファックスで送ることにした。もし、彼らが、ビジネスを優先しているのならば、おそらく気持ちは通じず返事は、返ってこないだろう。しかし、彼らが、本当の職人として情熱を持ってワイン造りを行っている人たちであれば、必ず返事がくると確信していた。 ドメーヌとのアポイントをとっている時に、「日本人は、ブルゴーニュワインをたくさん買っているから、会ってくれるよ」という人がいた。 確かにそうかも知れない。しかし、これもビジネス優先のドメーヌの姿なのだ。 そうではなく、自分自身のワインへの思い入れ、情熱を、ドメーヌに直接ぶつけて見たかった。国籍とか、たくさんワインを買ってくれるとか、というレベルを超えたところで、答えが返ってくるかどうか、確かめたかった。 ドメーヌとのアポイントを、「インポーターを介して取ればよい」という人もいた。しかし、これで、もしも訪問できたとしても、われわれの訪問は、ドメーヌにとって単なるビジネス上の接待の延長にすぎない。私が、ドメーヌに会って確かめたい、と思っていることから程遠いことなのだ。 8月26日(土)18時に、ドメーヌ・デュジャックとドメーヌ・クロード・デュガにファックスを流す。丁度、現地時間で朝の10時。土、日が休みだとして、遅くとも、翌週の月曜日には、返事がくるだろう。 ・・ファックスを流してから3時間後、ジャック・セイス氏から、直筆の返事が返ってきた。われわれ7人の訪問とセラーでのデギュスタシオンを受け入れる、という内容であった。 ファックスを読んですぐに返事を書いてくれたのだ。思いは、伝わった!体が震えた。お店にいたお客さんと一緒に喜んだ。飛び上がるほど嬉しかった。その時の感動は、今でも忘れられない・・。 そして、翌週の28日(月)、クロード・デュガ氏からも訪問を受け入れるという返事がファックスで送られてきた。ファックスが送信された時間は、現地時間で朝の8時であった。朝一番で返事を送ってくれたのだ!・・。 感動し、本当に嬉しかった。 その後、ドメーヌ・アルマン・ルソーは、出発の当日の朝に、ネゴシアンのルイ・ジャドーは、成田に向かう過程で、アポイントが取れた。 やっと予定していたドメーヌのアポイントメントがすべて取れた。これで、フランスに向かえる・・・。 |
パリからブルゴーニュへ
| パリの駅舎は、日本の駅に比べ、非常に屋根が高く、まるで、大きな工場の一つ側の壁を取り払い、この開口部から、鉄路が地方に伸びていくという形をしている。おそらく、蒸気機関車が鉄道の主流であったころのなごりなのだろう。 日曜日のせいか、旅人達や遠く地方からやってきた人々であふれている。日本の上野駅のように、どことなく出会いと別れが交叉する哀愁を感じさせる・・・・。 SnさんとGtさん、私の3人は、シャンパーニュでレンタカーを借りてやって来るMzさん、Stさん、Sk氏のグループとディジョン駅で午後2時に合流する約束をしていた。 駅の中のカフェで軽く昼食をとり、TGV(train a Grande Vitesse 高速列車)でディジョンに向かった。 フランス国鉄が誇るTGVのなかでも、私達が乗り込んだTGVシュッド・エスト(南東路線)の車体は、鼻先がとがった矩形をした少し燻したような銀色の車体で、その速さを誇った「弾丸列車」という言葉がピッタリする。 日本の新幹線が、航空機を思わせる流線型の美しいフォルムなのとは、対照的である。日本の新幹線は、旧日本軍の航空機を設計した技術者によって開発されてきた、という話を思い出した。この両者フォルムの違いは、国民性というよりは、設計思想の違いではないだろうか・・・。 パリを離れるとがらりと車窓からの風景が変わり、一面グリーンの絨毯が敷き詰められたような丘を列車はひたすら走る。そこには、人家も牧畜も視界には入らない。行けども行けどもこのみどりの丘がつづく。 日本とはまったく異なる、これらの風景を見ていると、フランスは、農業国であると改めて実感する。しかし、都市部と農村部との極端なこの景観の違いは、フランスの都市が城壁で囲まれて発達し人口が集積されてきたことに起因している。 城壁から離れた土地には、あまり人は住んでいなかった。日本でいう「郊外」に大規模なアパルトマンが建設され人々が住むようになったのは、近年になってからと聞く。 パリから1時間もするとディジョンに着いた。約束の場所で、レンタカー組を待つが、2時間たっても現れない。車なので、事故でも起こしていなければ良いのだが・・・。不安がよぎる。1時間待って会えないときは、それぞれ独自にホテルに向かう約束をしていた。 そこで。我々3人は、ディジョン駅からニース域のローカル線の列車に乗り込みボーヌの駅まで行き、そこからホテルに向かうことにした。その日の宿泊先は、ピュリニー・モンラッシェの村の中心にある。その名もホテル・モンラッシェ。 |
ボーヌ駅からタクシーで

| ボーヌの駅からからホテル・モンラッシェまでタクシーで向かった。 ボーヌの中心は、周囲1キロほどある城壁に囲まれた町で、ブルゴーニュ屈指のネゴシアンが集まり、11月には、かの有名なオスピス・ド・ボーヌの競売会が開かれる。 街並みをすぎるとすぐに葡萄畑の丘陵が目に入る。フランス人は話し好きというが、案の定、葡萄畑が見えてくると、タクシーの運転手が、「仕事は何か?」と話しかけて来た。 「ヴィノテーク(ワイン専門店)」と私は答える。「ワインの買い付けか?」と聞かれ、「いや違う、仲間と生産者を訪ねる」と答えた。「どこに行くのか」と聞かれ、ジュブレ・シャンベルタンの生産者の名前をあげると、「そんなの知らない」と運転手。 「ブルゴーニュ・ワインのファンなんだ」と私。それを聞いた運転手は、プィッと顔をそむけてしまった・・。私は、心の中で、アレッと思ったが、すぐにこの運転手の気持ちがわかった。 彼は、ボーヌのタクシーの運転手で、私が、ニュイのことばかり言うので臍を曲げてしまったのだ。われわれ日本人からすれば、ニュイもボーヌも同じブルゴーニュのワインなのだが、地元の人々にとっては、どうやら違うらしい。 道の前方にシャトー・ド・ポマールが見えてきたので、「ポマールのワインが好きだ」と私がいうと「シャトー・ド・ポマールを知っているか?」と運転手。「もちろん知っている。ヴォルネーもいいワインだ」と私。そして、次々を畑の説明をしてくれ、私は、「それも知っている、いいワインだ」と連発していると、運転手ものりに乗ってきて、「いいボーヌの造り手があるから紹介する」と言ってくれた。そして、左手で無線機を持ち、右手にはメモを持ち、なんと肘でハンドルを操作しながら、そのドメーヌの住所と電話番号を調べ教えてくれたのだった。 ときどきメモをとるために前方から目を離すのには、少しヒヤリとしたが、運転手の心意気には、感動するものがあった。 ・・そうこうする内にホテルに着いた。 われわれは、レンタカー組の到着を待った。しかし、夕刻の19:00時近くになっても彼らは現れない。こちらからの連絡手段も無く、彼らからホテルに電話連絡もなかった。連絡も出来ない状態なのか? ・・・最悪の事態も想定しつつ、彼らを待った。 ツアーとは違い、個人旅行では、トラブルが付き物。すべて自分達の力で対処しなければならない・・・。 |
フランス人
| フランスを旅行した人の話や住んだ人の話でよく出てくるのが、フランス人による日本人に対する人種差別。 レストランに入っても注文を取りに来てくれなかった、とか、町で出会っても無視されたとか、・・云々。 人種差別の原因は、肌の色の違い、文化的水準の違い、経済的な諸事情(自国の経済的な状態が悪くなると人々は排他的になり、時として為政者は、自らの政策的な失敗から人々の目をそらすために排他主義を煽り利用する)、また、第二次世界大戦で日本は敵性国家であったことなど、様々な要因が考えられる。 しかし、多くの場合、コミュニケーションがうまく取れないということに起因すると思う。私は、人種差別が存在することを否定するつもりはないが、少しでもコミュニケーションが取れるとフランス人は実に親切で良くしてくれるという印象を持つ。 英語で道を聞いても答えてくれないというのも、コミュニケーションがうまく取れないことの一例であると思うのである。 さて、レンタカー組がホテルに到着したのは、19:00をまわった頃。全員無事であった。最悪の事態も想定していたので、正直言って、ホットした。本当に良かったと思った。 遅れた理由は、レンタカーの故障であった。シャンパーニュから高速をおりて、一般道にはいってから交差点の真中で故障のため車が立ち往生してしまった。 慌てて車をおり、兎にも角にも身振り手振りで後ろから来る車を止めて故障であることを知らせ助けを求めた。 止まってくれた車のフランス人男性が、親切にも故障の原因を調べてくれた。その間、この男性の奥さんが、後続の車に事情を説明してくれ、なんと交通整理まではじめてくれた。 故障の原因は、車のキー・ボックスにあり、交換をしなければならなかった。あいにくこの日は日曜日でどこの工場も閉まっている。しかし、幸運にもこの男性が、ある車のメーカーのディーラーであったらしく、わざわざ知り合いの工場に電話をして修理を頼んでくれた・・・。 この間、事情を説明した我が方のMz女史が発したフランス語は「エクスキュズモァ!(すみません!)」の一言のみ。この一言で事態を乗り切ったのは、流石であると言うほかないが、それもこのフランス人ご夫妻の暖かい親切の賜物であると思う。 これも旅の中での人々との出会いのひとこま・・・。 やはりフランス人は親切であると私は思うのだが。 |